いったん鎌倉駅までバスで戻りまして、再び小町通りをぶらぶらしながら、ランチのお店を物色し、行き当たりばったりでこちらのお店に入りました。
1800円のコースにして、選べる1品はおビールをvvv
だって、昨日とはうって変ったいいお天気で、歩きっぱなしで喉がカラカラだったんだもん。
そして出てきたお料理vvv素敵vvv盛り付けといい、お惣菜の数々といい、完膚なきまでにワタクシの好みド直球です!
湯葉を使った生春巻きのような冷菜は柚子ドレッシングが爽やかでお野菜もシャキシャキ、ひじきと大豆の煮物、筍やお茄子の入ったお煮しめもほどよく炊き上がっており、白和えも上品で満足感のある味わいでした。
白飯のお供になる、鎌倉の名物しらすに、春らしい筍の煮物、おろし大根は、もちろん白飯にのっけて頂きました♪
お味噌汁も具だくさんで、美味しい~~vvv
いや~おビールが進むね!!
とお腹も心も満たされたところで、午後からの萌えコースへ向かってバスへ乗ったところで、悲劇に気づきました!!
ブロ友kuriさんに頂いた羊のぬいぐるみのリールつきパスケースがない!?
かばんにくっついていた羊ちゃん、八幡宮までは間違いなく写真に写っており、そのあと大塔宮バス停からバスに乗る際も…あったような気がするのですがそのあたりの所在が曖昧……。
いずれにせよ、ないには違いない!うぎゃーーーーー!!
しかも通勤利用のトイカ定期券が入ったパスケース、スイカ王国でも利用できるため、往きのJRでも使って乗車してきたし、ファスナーつきのポーチの中には、自宅から最寄り駅まで乗ってきたチャリの鍵もはいってるーーーん!!!おーまいがーーーーーー!!!
と……とりあえずどこで落としたかも明確ではなく、バスの中で喚いても仕方がないので、予定通りあらかじめ自分でセッティングした観光コースをめぐることにしました………。
★杉本寺
初期鎌倉府を預かる立場にあった、足利一門の斯波家長が、北畠顕家に攻められ自刃した場(杉本城)と言われています。
当時は確かに山城の様相を呈していたのだろうと思われる急勾配に建つ本堂、名所の苔むした階段が時の流れを偲ばせます。
前述のショックでおちおち萌えてばかりもいられず(泣)
しかし来たからには脳裏に焼き付けておかねば。
立派な茅葺の本堂。
奥へぐるりと回り込めるような丘陵地帯になっていて、時間と心の余裕があれば巡り歩いてきたかったのですが、連れもいることだし、ざっくり眺めて後にしました。
★報国寺
開祖は足利尊氏の祖父・足利家時。いわゆる置文伝説で知られる人物ですね。八幡太郎義家の「七代のちに生まれ変わって天下を取る」という置文の予言した代にあたる家時が、それを実現できない事を悔やんで「三代のちの子孫に天下を取らせよ」との願文を残し自害したのですが、これこそ、その三代めにあたる足利尊氏が、鎌倉幕府討幕のため蜂起するきっかけになったといわれています。
で、尊氏は室町幕府を開幕、京都に本拠を置いたため、鎌倉幕府の本拠であったかの地へ自らの子、足利基氏を鎌倉公方として下向させ、関東諸国への牽制とした事により始まったのが鎌倉府。
そして報国寺は、4代続いた鎌倉公方が終焉した地でもあります。
門をくぐると早速美しい石庭が。
本堂が姿を現しました。
観光地としては、竹の庭が有名で、青竹を眺めながらお抹茶が頂ける茶席が人気なのですが……人気過ぎて茶席に入れず(T-T)
お庭を眺めるだけになりますた……残念無念。
あああ……癒しの空間ですな………。
瑞泉寺でみたような岩壁にぽっかり空いた穴も。
はぁぁぁ……美しいだけに、何だか落し物の悲劇が思い起こされて複雑に切なくなる……
お抹茶が頂けなかったので、拝観を終えてから甘味処でお茶休憩しました。
これで550円!?安っ!!
名古屋の街中だったら850円はしそうです。
果物もいっぱい、たっぷり黒蜜がかかったあんみつに、急須にたっぷり入った玄米茶が美味しかった~vvv
休憩しながら、ランチしたお店と、バス会社へ落し物の問い合わせをして……
★足利公方邸旧跡
報国寺から少し離れた場所に、鎌倉公方の館がありました。
地図上で見てるだけとは違って、実際に自分の足で歩いて、距離感とか勾配、周りの景色(当然往時を偲ぶよすがはありませんが)を感じられるのが、歴史を追憶する旅の醍醐味です。
★浄妙寺
拝観時間ギリギリセーフ!
報国寺のほど近くに建つ浄妙寺の境内にはかつて、足利直義が創建した大休寺、足利直義が観応の擾乱で幽閉された延福寺がありましたが、今は廃寺となり、往時をより鮮明に想像するものがないのかちょっと寂しいです。
この写真じゃよくわかりませんが、中央の御賽銭箱に、丸に二つ引両の御紋(足利家の家紋)がvvv
そしてこのお寺には直義パパ、足利貞氏のお墓があります。
この父がいなければ直義は生まれていないですからね!
感謝の気持ちを込めて、手を合わせてきました。
そうそう、ブログタイトルへ鎌倉府と冠した割に、足利直義や斯波家長萌えばかりで、なかなか鎌倉公方やその補佐役である関東管領の話題が出てきませんが、ここでようやく登場!
★上杉朝宗・氏憲邸址
足利直義の麾下にあった上杉憲顕は、前述のとおり杉本城で戦死した斯波家長の後任として、鎌倉府の執事に任じられますけれども、そののち観応の擾乱を経て(なんせ敗れた直義派ですから)一旦政務の中心からは遠ざかります。
そんな上杉憲顕を再び鎌倉へ呼び戻し、関東管領の任に就かせたのが、足利直義の猶子でもあった、初代鎌倉公方足利基氏。
基氏は兄・義詮に次ぐ足利尊氏の正室の子ですから、本来なら実父の立場を最優先するところ、なんと叔父一派を重用したわけですから、そこには相当の想いがあったと思われます……よね!?(←同意を求めるな?)
ここまでざっくり説明しました情報からでも何となく窺えるとおり、つまるところ鎌倉府という構想はそもそも、足利直義の政治構想にあったもの。
結局、室町幕府は京都を本拠としましたが、源頼朝の系譜に連なる武家の棟梁としての本分を重視した直義は、鎌倉を本拠とすることにこだわりもあったでしょうし、足利尊氏が征夷大将軍となった後も依然として南北両朝の争いは収まらない世の中で、武家政権にとって鎌倉に本拠を置くことの重要性をますます感じていたのだと思います。
奇しくもその意思を、対立した兄・尊氏の子が継いだ、というあたり歴史の妙、史実を追究する尽きない感動がありますな……うっとり。
おっとと、前置きが長くなりましたが、石碑にある上杉朝宗は、上杉憲顕が鎌倉府の関東管領として復権した際、鎌倉府に出仕し、憲顕の娘婿でのち関東管領となる兄・朝房から家督を譲られ、犬懸上杉氏の当主として、関東管領に次ぐ地位を与えられました。
朝宗は、足利基氏の子で二代鎌倉公方となった足利氏満の信頼を得て、父・足利基氏の信頼が厚かった禅僧・義堂周信との連絡役を務めていましたので、基氏&義堂周信オシな私にとっては、もももも萌え~~。
きっと基氏の事を偲んでのやりとりとかにも、絡んでたんだろうなぁ……うっふふ。
上杉氏憲は朝宗の子。名前より出家名の上杉禅秀といった方が、ピンと来る方も多いのではないでしょうか?そう、世にいう上杉禅秀の乱の当事者です。
私的萌えポイントは、この上杉禅秀が、三代将軍足利義満の子・足利義嗣の愛妾の父親だった点。容姿端麗、頭脳明晰で、笙の才能まであった
彼は、パパ義満に溺愛されており、ぶっちゃけアホの嫡男(爆)義持より期待を背負ってた模様。
ですが、父の掌で踊らされるには頭良すぎたし、才能にも溢れすぎていたんでしょうね……そんなこんなでアホ兄・義持とは不仲になるし、おのずとそれを利用、あるいは将来性を展望した周囲の思惑にも巻き込まれ……不遇の死を遂げるのです。
もちろん、愛妾の父が鎌倉で反旗を翻した乱に加担した疑いも持たれちゃったし。
権謀術策相乱れる南北朝動乱から室町幕府へのエピソードと、その中心人物たちの背景には、歴史を愛するものとして見逃せない妙味があります。
……というわけで、本当はもう1コース、義堂周信萌えなルート攻略を予定しておりましたが、時間もほどよく過ぎてしまいましたので、それはまた近い将来にトライするとして、バスで鎌倉駅へ戻り、駅前の交番で亡くした羊ちゃんパスケースと、トイカ定期と、チャリ鍵の遺失物届を出してきました……とほほ。
あーーーーーん。萌えの代償は痛かった……!!
でも人事は尽くしたので、あとは天命を待つことにします……。
帰りの新幹線では、お約束?の崎陽軒のシュウマイ弁当。
痛い失敗をしましたが、萌えと癒しと…美食と、得たものもたくさんありましたから、ひとまず楽しく有意義な旅行だったと〆ましょう。
お土産篇につづきま~す。くすん。
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